制作・監督・脚本・撮影・編集:太田信吾
フィクションパート撮影:岸健太朗
録音:落合諒磨
音楽:青葉市子 (制作)曲淵亮/本山大
共同プロデューサー:土屋豊
製作:MIDNIGHT CALL PRODUCTION
◇CAST
増田壮太/冨永蔵人/太田信吾/増田博文/増田三枝子/坂田秋葉/平泉佑真/有田易弘/井出上誠/坂東邦明/吾妻ひでお/安彦講平 他
(2014.10.6 劇場で鑑賞)
大学の先輩が「観に行ってきた」とTwitterでつぶやいているのを見て,タイトルに惹かれました。
ネットで検索してみたら,その内容にも興味がわき,時間を作って足を運んできました。
谷川俊太郎は「あらすじに要約できない」とこの映画についてコメントしているのだけど,本当にその通り。
この映画の主要人物,増田壮太とその自殺をめぐるあれこれを,フィクションのカットも交えてとらえているドキュメンタリー映画。としか,今の私にはまとめる力がないです。
…酔いました。
初めて映画で酔いました。
それは撮り方の問題なのか,私の感覚過敏なのかわからないけど,
カメラはぶれぶれなところが多かったし,増田さんの声は通る声をしていたし,マイクは声を拾いすぎていた。
そういう要因もあったのだけど,きっとこの気持ち悪さは,増田さんが生きていたときに味わっていた気持ち悪さなのだろうと,途中から思うようにしました。
私も中学生や高校生の頃,演劇をしていました。
私は演劇よりももっと興味のあることがあったから,大学では全く違うものを勉強したし,蔵人さんのように「趣味」として演劇と付き合っていくことに決めていました。
それでも県大会に進んだり,関東大会に進んだり,劇場が市民とつくりあげる芝居に部活の同期や先輩が参加していい役もらっていたりと,地元ではそれなりに評価されることもあったので,
「芝居で食ってく」
と思ったひとは,私の周りにも確実にいました。
今,夢を叶えたひともいれば,諦めて地元で主婦をしているひともいます。音信不通になったひともいます。
増田壮太は,決してとくべつなニンゲンではないのだと,この映画を通して強く思いました。
映画の冒頭で,増田さんが東京から地元の埼玉に帰るシーン。
私からしたら,「それでも埼玉(=都心)でしょ」と思うのですが,きっと距離の問題ではなくて,実家に出戻るという行為自体が,「現実はあまくない」「夢が閉ざされる」というようなことに直面させられることなのだろうと思います。
あと,「映画の一本でも撮ってみろよ」と監督の家で包丁をテーブルに突き刺して迫るシーン。
あれは,「プロにふさわしい一曲でも作ってみろよ」と,増田さんが自分自身に向けて怒鳴っているようにも聴こえて,切なくなりました。きっとそうなんだと思います。ドッキリと言っていたけど,意識的であれ無意識的であれ,そういう意味合いも込められているのではないかと思います。
私は心理の仕事をしているから(…かはわからないけど),相手をぶちのめすような言葉はONであれOFFであれ言わないようにはしています。が,容赦なく出てきます。この作品。
罵倒というよりは,思ったことを率直に口にしている。それが潔くて,鋭くて,相手を傷つけることになったとしても,自分の心に従っている。そんな気がします。
それが「若さ」とか「がむしゃら」ってことなのだろうか。
決してきれいなものではないけど,でも人間ってそういうものだよね,とも思います。
どう生きれば,正解なのだろうか。
思い描いた世界にたどり着けない場合,どうルートを修正することが妥当なのだろうか。
自分が満足できる人生とは何なのだろうか。
そんなことを突き付けてくる映画。
それから,私は,死ぬ理由が生きる理由を上回ったときが死に時だと思っているのだけど,
増田壮太は本当にそれを示しているひとだなとも思いました。
生きる理由と死ぬ理由は不等号で表せる。
なんとなく人生の風に吹かれて,今の私は生きる理由が上回っているのだけど,少しずつ少しずつ風に吹かれて,くるっとひっくり返っていったのが増田壮太なんだろうと思います。
最後に,『わたしたちに許された特別な時間の終わり』の“特別な時間”とは,何のことを指すのでしょう。
わたしだったら,高校の部活の時間だったかもしれない。
モラトリアムを満喫した大学生~大学院生の7年間だったかもしれない。
もっと遡って,年長の夏まで通った保育園に行っていた時間かもしれない。
それとも,人生の時間すべてかもしれない。
「許されている時間」を生きることは,とても贅沢なことなのだろうとも,思いました。
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