Thursday, September 18, 2014

葛河思潮社 第四回公演『背信』





@東京芸術劇場

作:ハロルド・ピンター
翻訳:貴志哲雄
演出:長塚圭史

出演:松雪泰子/田中哲司/長塚圭史


間違いなく間違いなく間違いなく,私の今年のベスト3。

東京公演初日に拝見しました。
田中さんの結婚が報道された日。めでたい…。というかレアな時に観劇できたものです…。

この第四回公演を観て,第三回公演の『冒した者』を観なかったことを後悔しました。
それくらい強い引力があるカンパニー。


全ては,あの最後の一瞬のためにあったんだと思いました。
それはとても変な話で,だってこの戯曲は時間が逆行しているから。
私たちは結果から観ている。そうなのだけど,(あぁここからすべてが始まったんだなぁ)と思うと,なんとも言えない気持ちになりました。

あと,これだけ買って満足したパンフレットも,初めてかもしれません。
どうやら,神奈川公演のプレビューを経て作成・印刷したらしいのですが,とても濃厚な中身が詰まっていました。

開演前に,ゴーチ・ブラザーズの伊藤達哉さんの文章を読んで観劇したのですが,その後自分自身の体験も重なり,より深い意味がこもっている言葉だなと思ったので,引用させていただきます。


“ある見方をすると,人間のひとりひとりをその人たらしめているのは『記憶の集積』だといえよう。しかしながら人間の記憶とは極めて流動的でかつ不安定なものである。つまり人間とは実に儚くあやういものを基盤として存在していることになる。”


“ピンター戯曲においては,現実と虚構,真実と偽りの間にはっきりとした区別は存在しない。(中略)一見するとわかりづらいもののように感じるが,しかしそれは,実は私たちが生きる現実を忠実にトレースした世界であり,そのことがかえって観ている者の現実意識をじわじわ揺さぶることになるのである。”


本当にそうだ。私だって,他人の記憶によれば,行ったことのないところに行って食事したことになっているし,あげたはずのないものをあげたことになっている。
その人の記憶の中では,私はそういうことになっている。そういうことにしているのかもしれないし,したいのかもしれない。

それが見えた。この空間の中で。


それから,知られているはずのないことだから,知られているはずがないという設定でそのひとと話をしているのだけど,実は相手に知られていた。そのことを,知られているはずがないと思っているひとが知らない。
…とてもこわかったです。怖いというより,恐ろしい。
それを,知っている側はどうしてそんなふうにやり過ごせたのだろう。


ことばの間,せりふの間の中に,気持ちが見えました。
熱とか,意図とか,かなしみとか,目に見えないものが,見えました。
うまく言葉にできないけれど,お芝居ならではの,「空間を共有すること」をたっぷり味わえた作品でした。

あと松雪泰子は美しすぎだよね…。
私の世代だと,どうしても『名探偵保健室のオバサン』を思い出して,そのイメージが強いのだけど,『浮漂』でガラリと変わりました。艶があって,色気があって,背が高くって。ひとことで言うときれい…。
冒頭の,後ろ姿がとてもきれいで,全身で何かを受け止めている感じがしました。

あとあと,何の作品の何だったかはっきり覚えてなくて,ぽやーんとしてしまうのだけど,私,長塚さんが舞台に出てくると(あっ,神様が来た!)と思っちゃうんです。なんでだろう。
『SISTERS』かなぁ。それのパンフレットかなぁ。「作者と演出が同じひとだと,その演出が神様のように絶対的なものに思えてしまう」みたいなコメントを…長塚さんご本人かな?誰かがしてたんです。(←本当にぽやーん!スミマセン!)それを見てから,長塚さんが役者として出ていると,「神様!」と思うのです。『浮漂』のときなんてお医者さんだったから,特に。
だからなんだって感じなんですが,長塚さんがジェリーをやっていると,本当に何もかも見透かしているような気持ちになるんです。
…はい。それだけです。笑

そんなこんなで,充実した観劇ができました。
ありがとうございました…。

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